=第四話 醒めない夢=

闇を白い空気が掃いた。
体重を感じさせない足取りで、しかし確かに一歩一歩しっかりと進んで行く。
その場所を求めて。

木の扉が佇む。
しかしそれをノックするなんて事はしない。

物語に導かれるままに、この扉は開かれるのだから。

きい……
かすかに軋む声を上げて扉は開かれる。
「おや……君はふぁきあの……どうしたんだいこんな夜中に」
たしかカロンと言ったか……
紡ぐ者の身内だ。
こいつに用はない……
さあ、行こう。
「おい、どうしたんだいっ? あひるさんっ」

階段を上り、その部屋があった。
扉を開ける。
その部屋は装飾品のない殺風景な部屋で、あるものと言えばベッドと、本ぐらいのものだった。
いないのか……
あの者はこのうつわをひどく気にしているようだったぞ。
では……
「……う……」
探しておるのやもしれぬ。
このうつわを……
ならば。
行こう。
「あっ……」
虚ろだったあひるの顔が、かすかに歪む。
「あひるさん!」
追いかけてきたカロンが、立ちつくしているあひるの肩を取り揺すった。
「どうしたんだい、一体……」
「か……カロン、さん……」
絞り出すようにあひるがつぶやくと、彼女の体からがくりと力が抜けて、カロンは慌ててささえる。
「カロ、ン……さん……ふぁきあ、に……伝えて……。逃げて……わたし、からっ……」

白い少女は夜を渡る……闇こそわれらが同胞、夢を見る苗床なのだから。

とたんにあひるの体は溶けるように消え失せ、あとには呆然とカロンだけが残された。



紡ぐ者の力を。
今一度、その力を……
「く……」
(だめだ……このままじゃ……)
あひるの意識とは別に、あひるの足は夜の町をさまよい歩く。
(このままじゃ、ふぁきあに……)
なんだというのだね、われらと同じ、夢の欠片よ。
(えっ……?)
紡ぐ者の力を求めるのは、必然。
紡ぐ者の血、無しでは、われらは存在できぬゆえに……
紡ぐ者に歪められた現実のほころび……
このままではいつしか消えよう……
それは、欠片よ、おまえも同じなのだ。
(わたしが……消えるの?)
夢と現の狭間にいるおまえならば解るであろう。
その存在のなんと不安定なことか。
だからこそ、われらもこうしておまえの中で存在していられるわけではあるが……
物語に歪められたおまえの存在は不確定。
それは、まだ夢を見ている者がいるからだ。
(夢を、見ている……? どういう意味なの?)
憶えている者が現実を歪めているのだ。
(憶えている……ふぁきあの、こと……?)
存在は認識。
認識されぬモノは存在できない……
認識されることによってわれらは存在を保てるのだ。
(そんな……そんなことで、現実になるわけ……)
それが出来るもっとも力の強い者が紡ぐ者……
現実に書き込む力。
現実を書き換える力。
(そんなの、まるで……)
現実もまた物語なのだ。
あまたの人間によって紡がれる夢……
(そんな、そんなの……それじゃあ、わたしは……なんなの? あなた達は何なの!?)
われらは忘れられた夢の残滓。
ドロッセルマイヤーによって創られた現実の歪み。
おまえは夢と現のあいだにさまよう者。
終わった夢の欠片……
忘れられた現実の残り香……
夢と現の渡しびと。
どちらにも属さず、どちらにも属せない……
ゆえにはかなき存在……
確定されていない存在……
(……あなた達は……なにがしたいの……?)
…………
   ……………………
われらは存在をこの世に残したい。
     このまま消えるだと!
忘れられたままで……
誰も憶えていないと言うことがこんなにも……
こんなにも
こんなにも…………
(…………)
紡ぐ者の血を……
奴の血を……!
(えっ……)
奴の血が、われらを現世につなぎ止めるくびきとなる!
(ちょっと、まって……!)
血を。
血を
紡ぐ者の
血を。
(何をするの……っ?…………)
肥大した彼らの意識があひるを押しつぶし、あひるは何も考えられなくなる。
(っ……ふぁ、きあ…………………………)
(……………………)
(………………)
(……)

ふぁきあとぴけは日が暮れた金冠町を、あひるを探して歩いた。
闇はまだ浅く、午のぬくもりがかすかに漂う。
「いままで、幽霊少女の話はすべて日が暮れてからだよな」
「わたしもそんなに詳しくはありませんけど……そうです」
ふぁきあは自分の右手を見やる。
かつてつけた傷痕は、今はもう白いかすかな跡だけとなっている。
「この前言っていたな、幽霊の噂が立ちだしたのは一週間くらい前からだと」
「はい」
「おれも、一週間くらい前からなんだ。右手の傷痕が、急に痛み出した」
「それって……」
「関係あるかは解らないけど……ぴけは知っているんだよな、おれの力のこと」
「関係ないとは、思えない……と」
「そういうことだ」
そのまま2人は歩き続ける。
闇は段々とその温度を下げ、濃くとぐろを巻く……
「……とりあえず……一度、おれの家に行ってみようか」
「ふぁきあ先輩のおうちですか?」
「ああ。なぜだか、おれは二度も家の近くであいつを見つけているからな」
(なんだ……やっぱり)
あひるはふぁきあ先輩に会いたいだけなんじゃない……
そう思ってぴけはあきれた。
通じ合っているのにすれ違って。お互いがお互いに大切であることが2人を苦しめている。
うらやましくて、哀しかった。
わたしがしっかりしないとね。
ぴけは思う。
本当にこの2人は、人に心配を掛けることに関してはよく似てる。

ふぁきあがカロンと住んでいるこの家は、カロンの店と兼用になっていて表に入り口が二つある。
ふぁきあは居住のための、キッチンに直接通じている方のドアを開けてなかに入った。
「カロン、いるのか?」
人の気配を感じて呼びかける。
「ああ、ふぁきあ……」
「なにかあったのか?」
カロンの様子に、ふぁきあは眉根を寄せる。
「さっき……いや、本当に、あったのだろうか……」
「?」
「さっき、あひるさんが来て……」
「あひるが!?」
「それで……呼びかけても応えないんだ。そのまま二階に上がって行くから追いかけて、そうしたら……急に、溶けるみたいに……消えて、しまって……」
ふぁきあはきびすを返すと外に駆け出そうとした。
「まて、ふぁきあ!」
「先輩っ」
カロンとぴけの声が焦ったふぁきあの足を止める。
「ふぁきあ先輩、焦ったって何にもならないって言ったのは先輩自身ですよ!」
「何があったかは知らないが……頭に血が上ると何も考えられなくなるのはおまえの悪いところだぞ、ふぁきあ」
「……くっ」
ふぁきあは歯をかみしめる。
「それに……あひるさんが言っていた」
「あひるが……なにを?」
「…………わたしから……逃げてくれ、と」
「? あひるから……おれが……? どういうことだ」
「あひるに……何が起きてるのかな……」
「……」
あひるに何かが起きている。
それは確かにそうだろう
なぜ急に、彼女は人間の姿を得たのだろうか。
そして今度は、ふぁきあに逃げてくれと言っている……
「っ……」
右手が痛みにしびれる。
「……きた……」
「え……ふぁきあ先輩?」
ふぁきあは外への扉を見つめる。
いつの間にかあたりの空気は水の中のように冷たく湿気ていた。
「なにが起きているんだ?」
困惑にカロンが声を発する。
しかしふぁきあにはそれに応える余裕はなく、ただじっと待っていた。
それが来るのを。

物語に導かれるままに、この扉は開かれる。

ふぁきあの右手からにじんだ血は、床に流れ落ちるとそう言葉を刻んだ。
「なに……っ?!」

ぴけにはその扉の向こうに何があるのか……解った。
そこにいるのはぴけの探していた少女……
ならば今すぐ扉を開けよう。


「ぴけ! しっかりしろっ!!」
ふぁきあの言葉にぴけは震えるが、体はぴけの意志を離れて扉に近づく。
「血が……物語を書いている……? 誰の意志で……?!」
ぴけの手が取っ手に掛かり、その扉を……
「くそっ、ぴけっ、しっかりしろ!」
ふぁきあは床に刻まれた血の物語を、乱暴に踏みつけ、文字を壊した。
とたんにぴけの体が自由を取り戻し、ぴけはその場にしゃがみ込んだ。
「っ……はぁ……っ」
操られていた気持ち悪さがまだ体のあちらこちらに残っていて、ぴけは荒い息をついた。
わずかに開いた扉から外のひやりとした空気が流れ込む。
空気の流れが風を起こし、外との境は大きく口を開けた。
「…………あひる」
少女はそこに立っていた。
虚ろに光を失った瞳。
闇から浮かび上がるような白いスカートをなびかせて。
その虚ろな瞳がふぁきあを認めるとふわりと微笑む。
そしてゆっくりと、ふぁきあに近づいてきた……
「あ……あひる……」
ふぁきあは動けない。
じっとりと汗がにじんだ。
「あひるっ..しっかりしてっ!」
ぴけが駆け寄ろうとするけれど、それは見えない力で阻まれる。

なぜだか足が動かない。幽玄に佇む少女の姿は見るのものを痺れさせる……

「っ……あひる……」
あひるはふぁきあのすぐ目の前で歩を止めると、彼のその貌の輪郭をなぞるように両手で包み込む。

「う……」
そのままあひるの両手はふぁきあの体をなぞり、血のにじんだ右手を包み込んだ。
少女の白い手が赤く汚れる。
「なにをして……」
あひるはふぁきあの右手の平の傷を見ると、ちろりと舐めた。
「なっ!」
慌てて体を引こうとするふぁきあの腕をあひるは強く掴んだまま、ずいっとふぁきあに身を寄せる。
「紡ぐ者の血だ……」
あひるの声音で、だれかが言葉を紡いだ。
血。
      この血が
力ある血。
はやく……いまのままでは足りない……
  われらのくびき
この者の血をわれらに
「おまえの血をわたしに……!」
「あ、あひるっ!」
あひるの手がふぁきあの喉笛を掴む。
「ぐぅっ!!」
加減の知らない握力にふぁきあの息が詰まる。
酸素を求めて肺が悲鳴を上げ、掴まれた首が圧迫された痛みに軋む。
「ぁ…………」
首に立てられたあひるの爪が皮膚を裂き、にじんだ血にあひるは口づけた。
(や……やめて……っ……)
意識が朦朧として……
幻聴が聞こえる。
(やめてっ……! ふぁきあが……ふぁきあが死んじゃう……)
死ぬ……? おれが?
霞がかってきた思考がぼんやりとその言葉を考える。
あひるを一人現実に残して死ぬなんて出来ない……
けれど……

あひるは今どこにいるのだろう……

ここは現実?
それともいまだ物語の中だろうか。
死んだら、そこに行けるだろうか……
みゅうとにもう一度会えるだろうか。
あひるに……
あひると同じ場所に、立てるだろうか……
ふぁきあは自分の首を絞めている細い指を意識する。
あひるが、自分に触れている……

あひるが……?

触れる指先がひどく懐かしい。
こんな時にそんなことを思うのは変かもしれないけれど……
あひるが自分に触れていることが、ふぁきあにはひどく懐かしく、哀しく……

嬉しいことだった……

かすかにふぁきあの口元が笑む。

あひるに殺されるなら……悪くないさ……

(ふぁ、きあ……?)
ふぁきあの全身から力が抜けて、両腕がだらりと垂れた。
(いや……)
虚ろなままのあひるの瞳がわずかに揺れた。
(いや……っ)
ふぁきあの首を掴む腕が痙攣する。
(いやあああああっ!)
「あああああっ!」
あひるは切り裂くような悲鳴を上げ、ふぁきあの首から手が離れた。
「げはっ……はあっ……あっ……」
床に崩れ落ちたふぁきあの喉は酸素を求めて激しく呼吸を繰り返す。
急激に送られた空気に喉の内側がひりひりと痛んだ。
「あ……あひ、る……」
くらくらする頭を叱咤しなんとか意識を保つ。
あひるは床にしゃがみ込んで頭を抱えたまま、ぶつぶつと虚ろにつぶやく。
「なぜ邪魔をするのか。やはりこのうつわは紡ぐ者に思い入れが強すぎる……しかし、紡ぐ者と繋がるこのうつわは必要……血を操れぬ……悲願は成就されぬと。いや、いまいちど……わずかながら取り込んだ血を使えば、われらだけでも。少なすぎる……しかし……しかたあるまい。いまいちど……っ……ぐぅ……っ!」
虚ろだったあひるの瞳にわずかながら光が射し、あひるは震えながらも立ち上がると後ずさった。
「あひる……?」
あひるの行動にふぁきあは不安を覚える。
痛む体を何とか起こす。
「ふぁ、きあ……」
苦しげに吐き出された言葉は確かにあひるのものだった。
「ふぁきあ……さよなら……」
そう言うと、ふっと笑った。
哀しみと苦しみを包み込んだ、そんな笑顔だった。
「な……なにを言っている……?」
夢の欠片よ
何をするというのだ!?
「このまま一緒に消えよう……夢の残滓はすべてわたしが持っていってあげる……」
われらを閉じこめたまま
共に消えようと言うか……
「どういう、意味、だ……?」
あひるの意図が、解ってしまった……
「ふぁきあももう、思い出に苦しむことはなくなる……わたしとの約束も気にすることなんて無いよ。ぜんぶ、持っていってあげるから……」
「なにを……」
「夢の欠片はみんなわたしが持っていってあげる……ふぁきあはもう、寂しくないよ……その寂しさもぜんぶ、わたしが持っていってあげるから……」
「やめろ……っ」

夢はすべて、夢に還ろう……
優しい闇の苗床へ……生まれた場所へ……
すべての終わりが眠る場所へ…………


現実に残っている夢を、すべて消し去るというのか……
こんなことに紡ぐ者の血を使うとは
なんともったいないことよ……
しかたあるまい……
血を操れるのは結局、このうつわの方なのだ……
(うん……ごめんね…………悲願とか言うのは叶えてあげられないけれど……わたしが、一緒に行ってあげる……少しは寂しくないよ、きっと……)

「やめろと言っているんだっ!!」
ふぁきあは立ち上がるとあひるを強く抱きしめる。

少女が抱えて……夢に消えよう……

「おれの寂しさを持っていくのか? おれは……今までのことを、みゅうとのことを、るうのことを……忘れるのか……?」
「そう……ぜんぶ、持っていってあげるよ……」

あひるの体が少しずつ光になる。
それと共に、ふぁきあの意識の奥底が曖昧になるような……そんな不快感。
「……おまえのことも、すべて……忘れてしまうのか……?」

そうか……記憶が、思い出が薄れて行っている……あひると共に……

少女と共に、夢に消えよう………………

ふぁきあの眦から止めどなく涙が流れ落ちる……

だんだん解らなくなって行く……
たしかに意味のあった記憶が、他人の描いた風景画のように感情を持たなくなる。
たしかに聴いたその声音が、ただの雑踏に紛れる。
たしかに抱いた、その、想いが……
カタチを失ってゆくのが解った…………

心の奥に、乾いた砂みたいになって、積もってゆく記憶……

きっと

このまま

すべて

失ってしまえば

この苦しみさえ

意味を

持たなくなるのだろう……


「……ふぁきあ……どうして、泣いてるの?」
「…………」
「その悲しみも、ぜんぶ持っていってあげるよ」
あひるは包み込むように微笑み、ふぁきあを幼子のように抱きしめた。

共に、光の粒となって消え……

血はあひるの意志で物語を刻む。
残酷な結末を。
「持っていくなっ、あひる……! これは、おれのものだ……この想いは、おれのものだ!」
「ふぁきあ……?」
「おまえを抱きしめていたいって思う気持ちは、おれのものだ」

銀髪の少年……あれは誰だっただろう……

大切な物が、曖昧になる……

「……」

今抱きしめている少女は……誰だっただろうか………

それでも。

言わなくては……

「おまえが、愛しくて堪らない気持ちは……おれのものだ」
「っ…………」
抱きしめてくる腕にこもる力に、熱を持ったふぁきあの言葉に、あひるは息をのむ。
「おまえのことが好きで好きで堪らなくて、ずっとこの腕の中で守りたいって思ってる…………」
「……」
「おれの想いを持っていかないでくれ……」
「……」

    消え……

「おれを、おいていかないで……あひる……」

       消え…………

              ………………






「…………うん……」
涙に歪んだ瞳で、あひるは微笑む。
そしてふぁきあの腕の中であひるは光となって消えた。
ふぁきあは意識を手放しその場に崩れ落ちた。




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