=第五話 夢の少しあと=

過ごした時は夢なんかじゃなかった。
全部夢のような……現実。
まるで夢みたいに楽しかったから、みんな勘違いしてしまっているんだ。
あの操られた物語の中で、でも決して操られてなんていなかった物語の中で……
おれはおれの想いで動いて、考えて……
おまえに振り回されて。
とても、楽しかったから。
本当はもっとその心地よさに抱かれていたかった……
あの夢のような出来事も、物語のような現実に生きていたことも、その中で生まれた想いも……そしてこの、忌まわしき紡ぐ者の力も……
全部がおれ自身を造ってる。


気が付くと、ふぁきあに抱きしめられたまま水面に寝ていた。
辺り一面が水だった。
ふつうならあり得ないことだが、その水の上に寝そべっていた。
「なに? ここ……」
光にあふれたその空間は、霧に包まれているように先まで見通せない。
「ふぁきあ、ねえ、起きてよ……」
「ん……っ」
ふぁきあがうめく。
そしてゆっくりとまぶたを開いた。
「あひる……?」
あひるの姿を認めると、ふぁきあの目が驚きに見開かれる。
そしてあひるを強く抱きしめてきた。
「あひるっ……!」
「ふぁ、ふぁきあっ!?」
ふぁきあの行動にあひるは驚き、恥ずかしさで真っ赤になる。
ふぁきあの腕、力強くて暖かい……
抱きしめられていることがひどく心地よくてあひるは目を細めた。
「よかった……おれ、ちゃんとおまえに触れていられるよ……」
この暖かさ、存在、幻なんかじゃない。
ひどく安心したふぁきあの声音。
それを聞くと、あひるは自分が、ふぁきあにとても酷いことをしてしまったのだと思い知った。
胸が痛くて苦しい気持ち……
なのになぜか、その痛みは暖かくて、心地よかった。
ふぁきあはなんてたくさんのものをくれるんだろう……
「お、おい……なに泣いてるんだ?」
「ごめんなさい……」
あひるはふぁきあの胸に抱きついてただごめんと繰り返す。
「ごめんなさい…………」
傷つけてしまって……
心配させてしまって……
「……ごめんなさい…………」
苦しくて涙が止まらないのに……
悲しくなんてなかった……
なんだろう
不思議な気持ち
きっとふぁきあのこの体温が、わたしの中に移ってしまったんだ。
「…………ばか」
泣きじゃくるあひるに穏やかな瞳で苦笑を漏らす。
「なにあやまってるんだ」
「だって……」
優しくあひるの髪をなでながらふぁきあは言葉を紡ぐ。
「ありがとう」
「え……?」
「おれの前に現れてくれてありがとう」
「ふぁきあ……」
ふぁきあの真摯な瞳が、あひるの心を温める。
「おれの側にいてくれて、ありがとう……」
そうだ……いま言うべき言葉は謝罪じゃなくて、感謝の気持ち……
「いま、ここにいてくれてありがとう……」
「……うん……」
潤んだ瞳で微笑む。
「ふぁきあ、わたしを好きになってくれてありがとう……」
「あひる……」
あひるは少しだけ心配そうに、おずおずと口を開く。
「わたし、ふぁきあのことが大好き……ずっとずっと側にいたいって思ってる……もっとたくさん抱きしめてほしいって思ってる…………だめかな?」
「ばか……そんなの……」
ふぁきあは怒ったように眉をしかめたけれど、その顔は真っ赤になっていた。
「良いに決まってるだろ」
「うんっ……!」
満面の笑顔で、あひるはふぁきあに強く抱きついた。


「ここはどこなのかなぁ」
「なんだか……懐かしい気もするな」
「懐かしい?」
「ああ……なんだか、樫の木に取り込まれそうになったときのことを思い出した」
「樫の木に?」

それはそうです、紡ぐ者よ。

「だ、だれ……?」
ざああ、と風が水面を撫でる。

ふぁきあとあひるは自然に手を取り合う。お互いに、大丈夫だと言うように。
すると、水面に浮かび上がるように、樫の巨木がその姿を現した。
繁る葉を大きく優雅に揺らしながらその姿は鮮明になって行く。
「樫の木……」

お久しぶりです、紡ぐ者……

その巨木は確かに、かつてふぁきあに紡ぐ者の試練を課した、あの樹だった。
「樫の木さん! ここは一体どこなんですかっ?」
あひるは樫の木に問う。

ここは真理の沼……

「真理の沼?」

紡ぐ者は、一度来たはず……
ここはすべてのことわりが眠り、すべての夢が集まる場所……


「夢……?」

現実にならなかった現実……
本当ではなくなった真実……
歪められた事実……
そういったもの……哀れな、世界の視る夢の残滓。


「あ……もしかして……わたしの中にいたあの人たちも……」

おまえの、夢と現、どちらにも属する曖昧さにつけ込まれたのでしょう。
夢は忘れられれば存在できない……
強い力でその存在を現実につなぎ止めていた夢、おまえのその姿のことです。
そのことがうらやましくもあったのでしょう。
そして、現実に干渉するためのうつわとして。
紡ぐ者と繋がっていることも。


「あひるとおれが?」

あなた達を繋ぐ想いの強さゆえ。

「それが、奴らにとって何だって言うんだ」

紡ぐ者よ、現実を言葉で操ることの出来るあなたが、それを知らないはずはない……

「?」

現実を紡ぐのは想いの力、その強さ。
そして、その存在が『確かに、在る』という認識。
おまえたちはお互いに強くその想いによって結ばれて、その紡ぐ者の力を使いあっていたというのに気が付かなかったのですか……


「それじゃあ、あひるが人の姿を得たのは、おれのせいなのか?」
ふぁきあの記憶が、あひるの人としての姿を、現実に『あるもの』として留めていたのか。

それは正しくない言い方です。
おまえ達2人の望んだことなのですから。
その繋がりをたどって、あの者達はおまえの力を得ようとしたようですが……


「逆にあひるに封じ込められた……」

あひるの力がまさったのですね……その想いの強さゆえ……

(力なんて…そんなものもってないよ)
あひるはただ、ふぁきあをもう苦しめたくなくて必死だっただけだ。
自分の記憶によって苦しむふぁきあを見ていられなかった……
だから、すべてを無くしてしまおうと思った……
わたしが消えてしまうことは怖いと思った……
ふぁきあにさえ忘れられることは、たしかに怖いこと。
でも、それ以上に、苦しんでいるふぁきあを見ていられなかった。
ましてやそれが、自分のことでならなおさらに。
わたしの存在がふぁきあを苦しめるなら、わたしは消えてしまったほうが良いのだと思った。
ふぁきあを苦しめていることが堪らなかった……ふぁきあを苦しめているわたしが堪らなかった……
だから、あひる自身の意志で、消えることを強く望んだのだ。

ふぁきあはただ、あひるを失うことが怖かっただけだ。
自分の我が儘……そうかもしれない。
けれど、それでもよかった。
あひるが消えることがあひる自身の望みでも、そんな望みなんて忘れ去ってしまうような喜びをあげたかった。
あひるがいなくなったら、あのときの記憶がすべて消えてしまったら、それはもう、おれじゃなくなってしまう。
そこにいたおれは壊れて、消えてしまっていただろう……それはとても怖いことだった。
この少女を……この気持ちを失ってしまうことは……とても怖いことだった……
あひるの苦しみを作っているのがおれだというのなら、その苦しみもすべて喜びに変えてやりたかった。
心から笑っているあひるを見たかった。
心から笑えるあひるにしてやりたかった。
自分の我が儘でも……
あひるが幸せを感じることが出来るならば……その幸せをおれが作ることが出来るなら……
我が儘でもかまわなかった……

積み重ねた記憶を、苦しみに染めたくなかった。
積み重ねた想いを、無くしてしまいたくなんてなかった。

ただ、そこにあった大切な夢を、壊したくなかった。

理由なんてひどく単純でわかりやすいこと。
ただ単に……お互いに、お互いが、苦しみを抱えていることが堪らなくて、必死だっただけだ。

ただ、それだけだったから。

それが力だというのなら……
それは、もしかするととても嬉しいことかもしれない

ふぁきあとあひるは握り合った手にかるく力を入れると微笑み合った。

さあ、もう戻りなさい。
こんどこそ樫の木になってしまいますよ。


「ええっ! それは困りますっ」

そのまえに……それは置いて行きなさい。

「それ?」

おまえの中にいる者達のことです。

「あ……」
あひるの体を乗っ取り、ふぁきあを傷つけた……
夢の残滓たち。
あひるは目を伏せ、少し考える。
顔を上げるとあひるは、満面の笑顔を樫の木に向ける。
「いいの」

なに?

「あひる」
あひるの言葉にふぁきあも戸惑う。
「だって、寂しい気持ち、忘れられて哀しい気持ち……わたしにはよく解るもの……」
「あひる…………」

…………

「だから、せめてわたしが憶えていてあげたいの」

……………………

「それにね、この夢たちの持ち主だって、本当は忘れてないんじゃないかな……ぴけが憶えてくれていたみたいに…………
みんな忘れたふりしてる。本当にあったことなのに……それがあまりにも、夢みたいに楽しい時間だったから思い出すのが辛いの……
だからね、それは夢じゃないですよって……ちゃんと、自分の中に残っていますよって、教えてあげなくちゃ……」
ふぁきあは無言で、あひるを背中から抱きしめる。
「だから、わたしと一緒に行こう」

いいのか?

「うん。ぜんぶ、わたしが受け止めてあげるよ……憶えていてあげるよ……」
「……ばか、あひるだけじゃない、おれもだからな」
「ふぁきあ?」
「おまえ忘れっぽいんだからな。おれも一緒に憶えててやるって言ってるんだ」
「ふぁきあ……」
ふぁきあのぶっきらぼうな言い方がひどく嬉しくて、あひるは笑った。

………………ありがとう……

いきなり樫の木の幻影が消えたかと思うと、輝きを放っていた水面の足場も消え失せた。
闇に投げ出された2人は引力に引っ張られ、宙に舞う。
「きゃわっ」
「しっかりつかまってろっ」
引っ張られる力に離ればなれにならないようにと、2人はかたく抱きしめ合う。

『あひる……ふぁきあ先輩……』
『ふぁきあ、あひるさん……』

「ぴけの声……?」
「それに、カロンだ……」

『あひる』

「りりえ?」
記憶の中に閉じこめていた夢の欠片があふれだす……

『あひる』
『あひる……』
『あひる』
『あひる』

たくさんの人たちの声がこだまする。
どれも聞き覚えがあった。
彼女を呼ぶ声は、たしかにあのときそこに、その町に、存在していたのだから。
それは夢に似た本当。
その時間に、その場所に、その記憶は残っている。
「町の人の声だ……おまえのクラスメイトや、演劇サークルのやつら……」
「うん……学校の先生達……なつかしいな……」
どれもこれもあひるがかつて関わった人たち。大変だった記憶が付きまとうけど、どれも大切な思い出。
「わたしにとっては……すごく大切な思い出なんだけど……みんなにとってもそうなのかな?……そうだといいな」
「大切に決まってるだろ。少なくともおれにとっては、なによりも大切な思い出だ……
それに、みんな、ちゃんと憶えているんだ。ただ思い出さないだけで……決して忘れたりなんかしない。忘れられないさ」
苦しくて、すごく辛いこともあったけれど。今はもう、あの時のことはとても楽しかったとしか思い出せない……

過ぎ去った日の記憶はすべて自分の中にあるから。いまは前に進もう。
いまこの時を、楽しかったと思い返すための日がきっと来るから。

「ねえ、ふぁきあ」
「なんだ?」
「わたしは……アヒルでも、女の子でも、チュチュでも……わたしはわたしだよね。あひるだよね……そうだよね……?」
少し不安そうにふぁきあを見つめてくるあひるを、ふぁきあは真摯に見つめ返す。
「あたりまえだろ」
そして柔らかく微笑んだ。
「ふぁきあ……」
あひるはほっとして、そして笑顔を浮かべる。
ふぁきあを抱きしめる腕に力を入れた。
(わたしは、わたしの望むままにしよう……
けして誰かのためとかじゃなくて、これはわたしが、わたし自身のために望むこと……)
望むままに未来を変えて、今を生きよう。
新たな望みが出来たなら、それを目指して今を生きよう……
それがきっと、物語じゃない、本当の世界に生きること。
自分自身の本当の姿。
「金冠町に帰ろう。みんな、待ってる……」
「うんっ」
そして2人は手を伸ばす。
懐かしい人たちの声が呼ぶ方へ……



気が付くとふぁきあは自室のベッドの上だった。ふと見回せば、安堵の表情を浮かべたカロンが目に入り、大粒の涙をこぼすぴけの泣き顔が目に入った。
ふぁきあはきょろきょろと部屋を見渡す。
「ふぁきあ、よかった……一体どうなるかと……ふぁきあ?」
ふぁきあはベッドから降りると階下に向かって歩く。
「ふぁきあ先輩!?」
2人の声は聞こえていた。けれど、耳に入らなかった。
ふぁきあの歩は自然と速くなる。
玄関から外に出る。
もう夜があけて、朝霧が町をひんやりと包み込んでいた。
ふぁきあの歩が上がる。
走っていた。
その場所に向かって。


過ごした時は夢なんかじゃなかった。
夢のような現実……
アヒルのわたしが人間の姿を得たのも、バレエを習っていたのも、人間のお友達を得ることが出来たのも、そしてチュチュに変身していたことも……
それはすべて現実だった。
この町が物語に支配されていたという、現実。
唐突に始まって、終わってしまった、はかない夢のような本当の出来事。
わたしはただ、わたしの気持ちのままに、みゅうとを助けようと思って、るうちゃんとお友達になりたくて、そして……
ふぁきあの隣にいることが心地よかった。
ふぁきあの作るご飯はとても美味しかったし、なにより、険悪だった彼の態度が、少しずつ優しくなって、たくさんの表情を見せてくれるようになっていった事が嬉しかった。

るうちゃんは大鴉の娘なんかじゃなくて、本当はただの人間の女の子だった。
けれど、大鴉の娘として育てられたことも本当。
でもるうちゃんの”本当”は、「るう」というただの女の子として、みゅうとの側にいる事だったんだよね。
前にわたしが、ただのアヒルの戻ろうとしたとき、エデルさんが言った。

せっかく繋がったのに閉ざしてしまうのか、と……

人間の世界、鳥の世界、物語の世界、本当の世界……
でもそれは、本当はどれも繋がっている一つの世界。きっと人形の世界も……
るうちゃんはるうちゃんの希望でみゅうとと同じ世界にいることを望んだ。
そしてるうちゃんはるうちゃんが望んで、みゅうとが望んで、物語の世界のプリンセスになった。
それがるうちゃんの本当に姿になった。
じゃあ、わたしは?
わたしの望むもの……希望は…………?

ねえ、ふぁきあ。
わたし、踊るのが大好きだった。
すごく下手だったけど本当に好きだったんだ。
体を動かして、練習しているだけで楽しかったけど、でも、ちゃんとトゥシューズをもらいたかったな。あひるのままでいつか、王子様とパドドゥを踊りたいって思ってた。

わたしはね、あなたがいる世界がいいな……

ねえ、ふぁきあ。
たしかにあの日、わたしはあの金冠町にいて、たくさんのものを貰った。
それはまだわたしの中に残っている。
夢から醒めてしまった後でも、わたしは夢を見続けることが出来るよ。
これからもきっと、新しい夢を常に抱きながら……
この現実の中で、夢を見ながら歩いていける。きっと……

ねえ、ふぁきあ……
まだまだ、たくさん、たくさん、話したいことがあるんだよ……
ねえ…………


「あひる……!」

朝日が世界の温度を上げて、霧に包まれた蒙昧な世界に、確かな意識を取り戻して行く。
空はだんだんと青さを増して、風は暖かさを思い出す。
静けさをたたえたその湖のほとりに、その笑顔はあった。





「おかえり、あひる」
「ただいま、ふぁきあ」






ENDE





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