=第三話 夢の面影=

朝の光が世界に確かな意識を取り戻す。


昨夜拾ってしまった少女。
今は朝の光の中、穏やかな寝息でぴけのベッドに眠っている。
明け方には苦労した。なぜなら、夜が明け始めるととたんに少女が苦しみだしたのだから。
ぴけはそんな彼女に何も出来ず……ただ、その冷たい小さな手を握って名前を呼ぶ事しかできなかった。
「あひる……」

「うん……」
眩しい光に少女が目を覚ます。
きょろきょろと周囲を見回して、そしてぴけを見つけた。
「おはよう、あひる」
ぴけはとびきりの笑顔で少女に、あひるに目覚めの挨拶を贈る。
「……ぴけ……?」
「そうだよ」
驚いたような、呆然とした顔のあひるに、ぴけは穏やかに話しかける。
「ぴけ……どうして……どうして、私のこと……わかるの?」
「うん……どうしてだろうね……どうして、私、あひるのこと忘れてたんだろう……」
おそるおそる聞いてくるあひるに切なくなって、忘れていたという事に堪らなくなって、ぴけは顔をしかめるとあひるを抱きしめた。
ぬくもりが確かにあった。
「ぴけ……ぴけは忘れてないよ。ちゃんと、思い出してくれたじゃん」
ぴけを抱きしめ返してあひるはつぶやく。
そして2人は、しばらく泣いた。

ドロッセルマイヤーのこと、金冠町のこと、みゅうとのこと、るうのこと。
そして、ふぁきあのこと。
朝食にとぴけが用意してくれたパンを頬ばりなから喋るあひるの話を、ぴけは真剣に聞いていた。
「それでね、はじめはふぁきあが女の子にしてくれたと思ってたの……でも……」
両肩を抱きしめてあひるが震える。
「あひる……! どうしたのっ?」
「ごめん……ちょっと、痛くて……ぅぅっ」
「……人間になってから、ずっと痛いの?」
あひるの背中をさすりながらぴけが訊ねる。
首を横に振るあひる。
「ふぁきあに……否定されてから……」
「ふぁきあさまに?」
「ふぁきあは、力を持っているから……ふぁきあの言葉には、力があるの……だから、ふぁきあに否定されると……存在、出来なくなる……痛いのは……きっと、私が、死んでいってるから……」
「だめっ!」
どんどん容態の悪くなるあひるの言葉を遮り、ぴけはあひるを抱きしめる。
「あひるはここにいる! ここに、いるもの……だから、そんなこと言わないで、お願い」
「……ごめん」
抱きしめてくるぴけの暖かさに痛みが引いて行く。
「ありがとう、ぴけ……」

金冠町に時を告げる鉦が響いた。

「あ……学校……」
「いいよ、ぴけ、私ここで寝てるから……」
「うん、ごめんね。じゃあ行って来る」
制服に着替えて、教科書を取るぴけ。部屋を出ようとしてところであひるに振り向く。
「そうだ、りりえには……あひるのこと……」
「まだ言わないで……」
辛そうにあひるはうつむく。
忘れられていたら……思い出してもらえなかったら……
怖い……
そう、語っているようだった。
「わかった。でもいつかは……ね」
「うん……いつか……」
ぴけは部屋を出た。

昨夜はよく眠れなかった。
それでも、足は自然と学校へ向かう。
なぜだろう?
そこに、思い出があるからだろうか。

ふぁきあは重くわかだまった気持ちを抱えて登校する。
アヒルがいなくなって、思い知った。
自分が今独りであるということを。
頭の中は感情が混沌としていて、自分が何をしているのか、何をしたいのか、よくわからないまま日常と言う時間を流れた。

いつものとおりに授業を受けて、バレエを踊って。
ただひとつ、いつもは感じない種類の視線を常に向けられていることに気づく。
殺気に似ているけれど少し違う。
(怒っているのか……?)
視線の主に気づかれないよう、慎重に探す。(こいつが……?)
そして見つけたのは、あひるの親友だったあの少女だった。


前を歩く、男子の鮮やかな蒼い制服に、いつもとは違う感情が沸き上がるのを感じた。
「どうしたの、ぴけ?」
「えっ? あ、なんでもないの」
「そう?」
一緒にいたりりえがからかうように聞いてきて、慌てて視線をその男子から外した。
「な〜んか、いつになく熱い、というか殺気立ってる視線を浴びせてたけど……とうとうバトルする気になったの?」
「はあ? 私が誰とバトルするってのよっ」
「もちろん、ふぁきあ様とよ」
「……なんでよ」
りりえのいつもの調子に呆れながらも、そんなに自分は怖い顔をしていただろうかとぴけは思う。

『ちょっと、痛くて……』
『ふぁきあに……否定されてから……』

ふいにあひるの言葉が脳裏に浮かんだ。
こんな気持ちを、ふぁきあに持ったことはなかったと思う。
なんか、ムカムカする。
嫌な気持ちが頭の中に沸き上がってきて、隣のりりえの顔が妙に嬉しそうなことも気にならなかった。

授業がおわって、ぴけは一人学校に残った。
深い理由は、たぶん、ない。
あひるのこともあるし、まっすぐに寮まで帰ろうと思っていたのだけれど。
目の前を横切ったふぁきあの姿に、なぜか追いかけなければと言う気持ちが働いたのだ。

バレエ科の校舎を出て図書館に向かう。
ぴけはそんなふぁきあの後ろを、ドキドキしながらついていった。
(何してるのかな、私……)
後をつけているだけではだめだ。
なにか、しないと。
でもなにを?
パラパラと図書館の本を手にとって眺めるふぁきあを見つめながらぴけは考えた。
そもそもどうしてふぁきあを追いかけているのだろうか?
確かに憧れている先輩で……でもこんなストーカーまがいの事なんて今までしたことはないし、するつもりもなかった。
なのに……

『ふぁきあに否定されると……存在、出来なくなる……』
『私が、死んでいってるから……』

あひるの言葉を思い出す。
とたんに、今朝の嫌な気分が甦ってきた。
(ふぁきあ様が……あひるを苦しめている……)
ぎりりと歯を噛む。
視線に力がこもる。
(あひるが、あんなに苦しんでるのに……ふぁきあ様は、そのことを知らない……)
なぜか悔しいような、悲しいような……

ふぁきあは本をぱたんと閉じて棚に戻すと、すたすたと図書館を去る。
ぴけは慌てて、またその背中を追いかけた。

学園内の林の中で、ぴけはふぁきあを見失ってしまっていた。
きょろきょろとあたりの緑を見回しながら、鮮やかな制服の色を探した。
林道の先には四阿があり、その場所だけ少し開けていた。
ぴけはとぼとぼと四阿の側まで行くと、溜め息をついて座り込んだ。
「はぁ……なにやってんだろ……」
「それはおれが訊きたい」
突然頭の上から降ってきた声に、ぴけの体は驚きではねた。
「ふぁ、ふぁきあ……さま……」
声の主は、どうやら四阿の陰に隠れていたようだった。
「朝から変な視線があると思えば……おまえか」
四阿の壁に追いつめられて、昨日とは全く違う冷たい声色のふぁきあに、ぴけは身を竦ませる。
「いまおれは気分が最悪なんだ……何か文句があるなら手短に頼む」
ふぁきあの鋭い視線は怖くて堪らなかった。けれど、ぴけの中で小さな火がともる。
(気分が……悪い、ですって……?)
ぴけはふぁきあを睨み付けていた。
(あひるは……ふぁきあさまのせいで、死にそうなくらいの辛い目に遭ってるのに……!)
「ふぁ、ふぁきあ様が……ふぁきあ様が、悪いんです!」
「おまえに迷惑を掛けるようなことがあったか?」
「わたしじゃない……あひるが、あひるがあんなに苦しんでるのはふぁきあさまのせいなんですよ!」
「なっ……おまえ……」
思わぬところからあひるの名前が出て、ふぁきあはたじろぐ。
ぴけは熱くなっている自分を自覚しながらも止めることが出来なかった。止めたくなかった。涙が頬を伝うことも、全く気にならなかった。
「あひるは……痛いのは自分が死んでいっているからだって……それは、ふぁきあ様に存在を否定されたからだって……!それなのにっ、ふぁきあさまはあひるを傷つけて、苦しめて、何とも思わないんですか!?」
「ばかをいうなっ!」
ひときわ大きなふぁきあの声が、まくし立てるぴけを止めた。
「傷つける?苦しめる?そんなことは解っている! おれだって、あひるを苦しめたくなんてないさ、けどな、いつだって、苦しめてから気が付く……悲しみを抱えていることに気が付いてやれないっ……! どうしろと言うんだ、守りたいのに……あひるを……こんなにも、守りたいのにっ!」
「……」
あまりの剣幕に、ぴけは呆然とふぁきあを見つめていた。
ひととおりまくし立てたふぁきあは、肩で息をしながら、ぴけが泣いていることに気が付いた。
「……すまない……泣かせて、しまったのか」

ぴけの涙を指で拭い、熱の冷めたふぁきあが詫びる。
ふぁきあが苦しげに話す様を見て、ぴけはクスリと笑みがこぼれる。
「なにがおかしい」
「……泣いているのは、お互い様です」
「な……」
あわてて手で顔を押さえると、たしかに涙の跡を感じて、ふぁきあは羞恥で顔を染めた。
そのふぁきあの表情の変化がぴけには堪らなく嬉しくて、ぴけは口元を押さえて笑い続けた。

「おまえは思い出したのか」
「はい……それと、今までのこと、あひるの本当の姿のこと、あひる自身から聞きました」
「そうか……」
林の中の四阿で2人は今のお互いの状況を整理する。
「ふぁきあ先輩は……あひるに、言っちゃったんですね……」
「……」
「人間のあひるはいない、って……」
「ああ……言った」
様付けはやめてくれと言われたぴけはおずおずとふぁきあに訊ねる。
ふぁきあは苦い顔でぴけの言葉を肯定した。
「そうだな……おれは、これ以上変わって行くことが怖かったのかもしれない……」
ふっとふぁきあの顔から表情が抜ける。
「あの時、あひるにアヒルであることを認めさせたのは、あひる自身が自分の出生に対して劣等感を持っていて……それによって自分自身を傷つけていたからだ。おれはそれが堪らなく……嫌だった」
ふぁきあの独り言のようなつぶやきを、ぴけは静かに聞いていた。
「おれはあひるが好きだったから、あいつが傷つくのが嫌だった。姿なんか関係なくて、あいつの存在が愛おしかった。みゅうととるうがいなくなってあいつだけがおれの側に残ってくれたとき、もうこれ以上失いたくないって、きっと、思ってしまったんだ……あいつの幸せはおれが決める事なんかじゃないのにな……あいつがどんな姿を望むのも、どこに行くのも、あいつ自身が決めることなのに……」
「ふぁきあ先輩は……」
それまで黙っていたぴけが口を開く。
「ふぁきあ先輩はそれで良いんですか? あひるが好きなのに、気持ちを伝えないままで、このままあひるがどこかに行っちゃっても、それで良いんですか!?」
「それがあひるの幸せなら」
「そんなの卑怯です!」
「卑怯……」
ぴけの言葉にふぁきあは驚く。
卑怯……
そんなこと、考えても見なかった言葉。
「だって、気持ちを知らないと、応えることも拒否することも出来ないもの……ふぁきあ先輩はあひるの選べる選択肢を狭めてるんですよ! それに、そんなにあひるが幸せになってほしいなら、自分自身で幸せにしてあげて下さいよ!!」
「おれが……? そんな……こんな中途半端なおれに、誰かを幸せにするなんて出来るわけ……」
「それが卑怯だと言っているんです!」
ぴけの剣幕にふぁきあは目を丸くしてぴけを見つめる。
「幸せに出来ないなんて……それはあひるが決めることです! それに、そう思うなら、どうして幸せにしてあげようって努力しようって思わないの!? もしも、あひるがふぁきあ先輩のことを好きだったら、ふぁきあ先輩の態度はとても傷つきます! 悲しいわ!」
「そんな、あひるがまさかおれの事なんて……」
ぴけは自分がまた涙をこぼしていることを自覚した。
けれど、そんなことにはかまっていられなかった。
この朴念仁にどうしても言ってやらなければ……腹が立って仕方がなかった。
「だから、それはあひるが決めることです。ふぁきあ先輩はあひるがいなくなることをとても怖がっている、今までの関係が壊れてしまうことを恐れている……それは悪い事じゃありません。でも、自分の気持ちを抑えて、自分の希望から目をそらしてしまうのは卑怯です……あひるの幸せを望むのなら、ちゃんとあひるに伝えて。あひるに決めさせてあげて」
「……」
「変化を否定するだけなら、自ら道を閉ざしてしまうだけなら……決められた物語に支配されていたときと同じですよ」
ぴけの真剣な眼差しに、言葉に、ふぁきあは心臓を貫かれた思いだった。
(ああ……どうしていつも、こうなんだろうな……)
壊すまい、壊すまいと丁寧に扱っているつもりなのに……いつも自分が壊してしまっている。傷つけてしまっている……
それにもう一つ、気が付いてしまった……
ふぁきあはふっと表情を和らげると、泣いているぴけの涙をもう一度拭った。
そして静かに言葉を紡ぐ。
「……おれは、あひるのことが好きだ。幸せにしてやりたいって思ってる……」
またひとつ、ぴけの目尻から雫が落ちて、ぴけは怒ったように顔をしかめた。
「…………それはあひるに言ってやってください」

「すまない……ありがとう」


『霧散した夢の残滓……』
『茫洋とした夢のうつわ……』
(だれ……?)
『消えてしまうのなら……』
『消えてしまうことを望んでいるというのなら……』
(だれなの……!?)
『われらがもらい受けよう……』
(あ……あっ……ああっああ……!)

「あひる……?」
寮のぴけの部屋には、誰もいなかった。
「そんなっ……どこに行ったの?」
あひるの寝ていたはずのベッドはまだ暖かい。
女子寮から出て、待っていたふぁきあに事の次第を話す。
「おちつけ」
焦りでうまく言葉の回らないぴけをなだめるふぁきあ。
「でも……」
「慌てても仕方がない……それに……」
ふぁきあは沈み始めた夕日を見、自身の右手を握りしめた。
「……何か起こるとしたら、これからだ」



前へ   次へ