=第一話 佇む夢=

体が軽い。
闇が重く漂う夜のしじまに、ぽっかりと月だけが浮かんでいる。
アヒルはとまどう。
「どうしちゃったんだろう、わたし……」
最近よく見る夢。
今日もきっとその続き。
気が付けば、自分の姿はかつての、人間の女の子になっていた。
とまどいながらも、人間の長い腕と足が走ると風を切って、それが気持ちよくて、アヒルは、あひるは嬉しくて、夜の中で踊り続ける。
「ふぁきあが、物語を書いてくれたの?だから私、女の子に?」
あひるがくるくると回るたび、纏っている白い霧のようなドレスがなびく。
月だけが照らす闇の舞台の中を、あひるは知らず知らずふぁきあの家に向かっていた。

あの日、金冠町が物語という夢から目覚めた日……
あひるはアヒルに戻った。

物語によって歪められていた現実はすべてその本来の姿を取り戻し、その変化を疑問に思う人はいないようだった。
すべての出来事が、まるで長い長い夢物語りだったと言うかのように……
幻だったとでも言うかのように……

それでも、ふぁきあはちゃんとあひるのことを憶えていてくれて、あの時の約束を守ってくれている。
ずっと、側にいてくれるというその約束を。

「ふぁきあが女の子にしてくれたのかな……」
(だとしたら、嬉しい……)
あひるはうっとりと頬を染める。
人間の姿を望まれると言うことは……
(ふぁきあに求められてるって、思っていいよね?)
アヒルの自分が嫌いなわけじゃない。
けれど、この姿で、ふぁきあの隣にずっとずっといられたら、それはどんなに素敵だろう……
もっとふぁきあとお喋りしたい。
頼るだけじゃなくて、対等の相手として側にいられたら……そのぬくもりを感じていられたら……
(そんなこと、わたしの我が儘だよね……でも、もしも、ふぁきあが同じ我が儘を持っていてくれたとしたら……嬉しいな……)
白い少女は踊る。
いまいちぎこちない動きだけれど。
(ふぁきあに逢いたい……)
想いにあふれたその姿は、見る者がいたら魅了していただろう。


アヒルは、ふぁきあとカロンの暮らす家にやっかいになり、ふぁきあは物語を書き続けながらも金冠学園に通っていた。

ところが最近、アヒルに少し変化が起きていた。
夢を、見るのだ。
人間の、女の子の夢を。
夢のあひるはいつの間にかふぁきあの家を飛び出していて、気が付けば、人間の姿をしたアヒル自身が、見覚えのある湖に立っていた。
月明かりに薄く姿が浮かび上がる夜。
夢とは思えなかった。その空気の冷たさ、水のキンと冷えた痛さ。草の柔らかさ……
夢とは……思いたくなかった……
そうして人の姿を得たあひるは、一夜ずつ、少しずつ近づいて行くのだ。
夢を見るたびに。
この姿を、見てもらいたい人のところへ。

右腕が軋むように痛む。
鈍痛は手のひらから、そう、かつて自分自身で傷つけた右の手のひらから。
じわりと染み込むように腕に広がる痛みに、ふぁきあはただもう一方の腕で押さえて静かに耐えていた。
「なんなんだ……一体」
夜になると、決まって痛む。
此処最近ずっとそうだ。
はじめは、ただ古傷が、夜の寒さにあてられて痛むのかと思ったが……これは、この痛み方は異常だ。

ふと、声が聞こえた……気がした。

顔を上げると、窓から差す満月の明かりに目が眩む。その明かりに誘われるように窓辺に近づくと、灯りの消えた街はまるで、薄暗い湖の底にでも沈んでしまったかのように見えた。

皓い少女の幻が、その闇の水底で踊った……ような気がした。

「……どうかしてる。なんで、あいつを思い出すんだ……人間だった頃の、あいつを……」
脳裏に浮かんだのはあひるの姿だった。
月に照らされて輝く、少女の姿。
この水底のような闇の中で、水精のように、くるくると踊る少女の姿。
あひるはあのときアヒルに戻った。
本来の姿に。
そして今は、この家に、ふぁきあの側にいてくれている。
いまはアヒル用に用意した篭をベッドにして眠っているはずだ。

ぽたり。

床に水滴が落ちた。

「う……」
軽い目眩にひたいを押さえる。
先ほどよりも強く痛む右腕からぽたり、と血がにじみ、流れ、落ちるのを、ふぁきあは気づかなかった。

窓の外で。
白い影が踊った。

「え……」
ふぁきあは驚きに顔を上げる。
一瞬視界に写ったものは……

今見えたものが、理解、できない。

まぼろし? 
    願望の見せる夢?
そんな望みなど、
誰が、
 持っていたと……

         …いうのだろう…………

「そんな……そんな……ばかなことが」
早鳴る気持ちに理性が追いつかない。
考える余裕なぞ無く、ただ、足は玄関を目指していた。
「そんなこと、あるわけ……」
薄暗い階段を駆け下り、台所を抜けて、そして、その重い扉を

開けた。

静寂の昏い闇が支配していた。
水のようにたゆたう、冷気。
月だけが、まるで其処がこの闇に沈んだ湖の水面であるかのように、遠くで輝いていた。

そこにいた。

ふわりと、ゆっくりと、まるで夢でも見てるみたいに。
白い影が踊る。

ふと、その手足が止まり、白い彼女は、ゆっくりと、ふぁきあの方に貌を向けた。
その融けだしていまいそうな笑顔。
「ふぁきあ……」

「……」
その声にふぁきあは凍り付いてしまった。
少し舌足らずな甘い声。
聞きたくて、聞きたくて堪らなかった、そして二度と聞きたくなんて無かった……
その声…………
「あはは、なんだか不思議……こんなに、近くにふぁきあの顔があるよ」
動けないでいるふぁきあに、少女はためらいもなく近づいて、そして顔をのぞき込んでくる。
「だ……誰、だ?」
絞り出すようにやっとそれだけ言った。
ふっと少女の表情が曇る。
「え……? 何、言ってんの? …わたしは……わたしはあひる…」
「あひるはいない!」
強く否定され、あひるはびくりと震えた。
「いない……?」
わたしは……
あひるの頭の中は真っ白になる。
さっきまで軽く感じていた体が、とたん、じっとりとした重みをまとわりつかせた。

ぽたり。

水滴の落ちる音が聞こえた。
「人間のあひるは、もう……」
わたしは、いない……

一番に聞きたかったはずのふぁきあの声が、今は薄氷の刃と感じた。

……だめ!
それ以上、言わないで……っ!
「だから、これは、悪い夢だ……」
冷えたふぁきあの声が、あひるの胸に霜のようにしん、と降りた……

ぽたり。

「うっ……あ……」
とたん、少女は胸元を押さえると、酷く苦しげな息を吐いた。
その姿にふぁきあはわずかながら、冷静さを取り戻す。
「お、おい」
「ああっ……ああああっ!」
少女は膝をつき、両腕で自身を抱きしめて、肩でせわしなく息をする。
「わたしは……いない……?」
荒い息のあいだから、とぎれとぎれに声を絞り出す。
その少女の変化に、ふぁきあは訳のわからなさと同時に、強い罪悪感を憶えた。
「一体、どうなって……」
訳が分からなくも、あひるの姿をした少女が苦しげな様子が堪らなくて、困惑しながらもふぁきあは少女の方に一歩足を踏み出した。
びくりと少女の肩が揺れる。
痛みと恐怖が彼女の顔をゆがめていた。
「あ……」
ふと少女の足元を見ると、彼女の姿はつま先から順に、光る粒子になって、溶け出すように闇に消えていっていた。
「なっ……」
これではまるで、あの、物語の中のプリンセスチュチュではないか。
「うっ…あっ……たすけて、ふぁきあ……」
かすれた声で吐き出す声音。
少女の目から、涙がこぼれた。
「ふぁきあ……ふぁきあ……っ」
少女は苦しげに、その指先をふぁきあに伸ばす。しかしふぁきあは訳が分からずただ呆然と立ちすくんでいた。
膝が、腿が、光となって、そして闇に溶けた。
「あああ……」
苦しげによじった腰が、胸が、闇に溶けた。
「……ふぁきあ……」
粗く揺れる肩が、震える指先が、闇に……
「あひるっ……!」
少女の指はふぁきあの伸ばした手に一瞬かすめ、……闇に溶けた……


静寂だけが、そこにあった。

「な……なにが……どうなって」
ふぁきあは自身の震える右腕を見やる。
「なんだこれは……」
右腕は自身の血で赤く染まり、まるで屍のように冷えきっていた。
ただ、先ほど少女をかすめた指先だけが、少女の熱をともしてじんと痛んだ。


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2003.10.6 14行ほど文章追加。前半部分のあひるの心理描写。
          挿し絵追加、三枚。